日曜日, 7月 27, 2008

中国に行きたかった

実家ではよく眠れる。それでも昼12時には起こされて家族と昼食をとる。
暑い夏は戦争の話を聞く、という風習があるわけではないけれども、祖父母の昔話が聞きたいと思った。祖父はやはり自分の経歴を年/月で覚えていて、さすがそういうところが男性だと思う。(祖母はまったく覚えていない) 昼食後の食卓で祖父が語った経歴を記録しておきます。

S9       金光中学校卒業(中学校は5年間いく)
〜S10     倉敷レーヨン就職 退職
        岡山県の臨時職員へ(土木部里美川改修事務所)
S12.9.1  国鉄入社 倉敷駅改札
S13         金光駅改札
S14.9.1  広島鉄道局 岡山用品庫
S16.10   華北交通(株)天津鉄道局
S18.9             日本に戻る(結婚のため)
S18.10.1 結婚式 
S18.10.5 汽車に乗って下関ー釜山ー奉天ーー天津へ
S19.4       徐州鉄道局経理部 配属(祖父だけ先に徐州へ)
S19.8    祖母も徐州へ
       祖母が出産のため先に帰国
S20.5.23    父誕生
S20.8.15 終戦
S21.3.15    祖父日本に帰国
S21.12         岡山用品庫

昔から祖父の中国の話をよく聞いていて、背が足らなかったのと耳が少し悪かったので徴兵されなかった祖父が代わりに鉄道で中国にいったのだと思っていた。そうではなくて、「中国に行きたい人?」と社内公募があって、中国に行きたかった祖父は手をあげたのだそうだ。この事実を今日初めて知った(戦争体験として、もっとセンチメンタルな印象をもっていたが、実際はこんなに明るい決断だったのだった。)
また祖母は軍事教練の教官に「中国はいいぞー。いっぺん中国に行ってみ〜」と言われたのが印象に残っていて、「いつか中国にいってみたいなあ」と友達同士、ささやきあっていたところに、祖父とのお見合い話がきて、祖母は「中国に行きたい!」と思って承諾したのだそうだ。そして結婚式の4日後には汽車で中国へ向かう。朗らかな祖母らしい、大胆な決断だなあと思った。けらけら笑いながらそういう話をする祖母は素敵だ。中国では怖いと思ったいたけど、まったくそういう思いをすることはなく、まわりの人によくしてもらって帰ってきた。(当時の天津には日本人が7万人いたとのこと)

祖父は中国で4級通訳の資格をとったという。私が幼い頃から、家の前を通る人に中国語で話かけて訝しがられていたが、私もそういう環境なので、イー/アル/サン/スーと数えることだけはできた。(それは一昨年の北京旅行でまったく役にたたなかったけれど)

今日初めて、事の真相を知って驚いたが、私は小さい頃からよく聞いていた戦争の話を、これからの若い人が聞く機会は減るだろうし、直接聞ける環境にあったのに、意外にもしらない事実があったりするのだから、よほど意識的にならないと後世に残らないのではないかとも思った。
 


1 件のコメント:

Misao さんのコメント...

そう思います、この年まで生きてやっと聞こえてくる「あの時のこと」というのがあるなぁと思います。
いかにこれまで生きてゆく上でどぅでもよかったか!?ですね。。。
現在の日本では、食の安全など嫌中ブームですが、「中国へ行きたい!」と思っている日本人はた〜っくさんいると思います。
今なら変人扱いもされかねないでしょうか(笑)。
中国もとてもとても大きな国なので、「中国で」と言ったところで中国のどこまで言えているのか、と思います。
もちろん、統一の理想の下で「中国的。。!」と言ってみることが大好きみたいですけど。
私たちの両親の世代や私たちの世代は、中国やアジアの国々に親しむことが許されないような子供時代を送っていますよね。
近くて遠い国々です。
まるで血の繋がった兄弟とず〜っと会うことを許されていないような。。。自分自身のミステリーとの対話を異イデオロギーの壁などで閉ざされてしまっていたような。。。
でも、反吐が出るほどの相手ですけど。
ここはこの世界の掃き溜めか!?と思うほどの。
民間では、もつれた紐をかなり簡単にほどきあう関係だと思います。チベット人と漢人も本来そうだと思います。
この国は、大変なことです。